
わたしが脳腫瘍で入院したときの記憶と記録です。
この記事の目次
宮崎大学医学部付属病院に運ばれてよかった
緊急入院から手術までの1週間
けいれん発作による意識障害で入院して、その日にCTとMRI検査(してたよう)の結果が夜に出て、緊急手術は必要なく家族は帰宅した(と後日聞きました)
当日午前中に救急車へ運ばれた記憶があり、次に気付いたら消灯前だろうか見知らぬベッドの上で自分の赤いスマホを発見。病院に入院したのだとわかり、半年以上時々あった頭痛を報告していた友人の助言「一度検査してもらったら?」を思い出し、それを無駄にした申し訳ない気持ちが友人に電話をさせた。この日はまだ少しボケた感じだったようで自分の発言は覚えているが、この時の会話が完全には成立していなかったと後日教えてもらった。
入院後からご飯を自分で食べたり、予定していた海外への旅を中止する為の連絡など不自由なく出来たが、看護師さんから採血後に圧迫して押さえてと言われても守らない「言われたことを忘れるとのこと」とスマホのメモに残しているので、他人から見ると少し普通の状態ではなかったようです。
手術3日前、わたしが左利きで腫瘍が右脳にあったので脚の付け根の血管からカテーテルを入れ、血管造影装置という機械で言語に障害が出ないかの確認をした。台に仰向けになり頭の周りを何かがぐるぐる動く様は自分が宇宙戦艦アーガマになった気分であの不思議な体験はしっかりと覚えています。この検査前の説明で自分の脳に腫瘍がある事を認識したようです。
手術2日前、病棟の先生から伝えられたのは明日に執刀医で担当の先生から手術の説明があり明後日が手術ということ(家族は事前に知っていた)朝に採血あり手術前日に入浴でした。
手術前の説明
家族も遠くから来てくれていたのでそれも感謝し同席での説明を受けた。仕事の交渉でもするかのような雰囲気で挨拶をしてから模型やMRIの画像を見せられて脳の一部が白くなっているところが腫瘍でこれを取り除く必要があると。実際の脳が白く変色しているわけではないので、手術には最善を尽くすが目を覚まさない可能性もゼロではないとはっきり言ってくれて逆になぜか信頼でき「不幸中の幸いにもできた場所がよかった」とも言っていただいた。不安もなくわたしが説明中に思っていたのはこれはもうこの先生に任せるしかない、初対面だがそれだけ信頼と安心感があり情熱的なオーラを纏っていました。
この日の脳の状態は非常に覚醒していて、説明と自分の状態をしっかり理解し疑問があれば質問して、音楽を聴いたり入院前とほぼ変わらない感じでした。座薬で無事にお通じもありひさびさに身体を洗い尿道に管を入れたが想像より痛くなく助かった。友人との数分の会話だけで元気がでた、本当にありがたい。
手術の日
朝はいつも通りに起きて何度かメモを書いた。
- まだだ まだ終わらんよ。って精神で引き続き行きましょー
- 空が綺麗な青だね やっぱり好きだな
- じゃあ ってきますわー!またここであいましょう
前向きで好きな言葉で自分を鼓舞して、8時前この世で唯一泣かせる訳にはいかない人へ「良い一日を わたしは頑張ってくるね」とメッセージを送り時間が来ると車イスで大部屋を出て途中家族と会い手術室手前では事前に言われていた合図「手術する側は?」と言われ「右です」と答え中へ運ばれた。そこは医療ドラマで何度も見たセットのようだった。ちょっと役者気分を味わい手術台に移動し仰向けになると大きなライトが視界に入り「これから全身麻酔をかけます」と言われマスクをかけられ、いつの間にか眠りに落ちた。
皆さまのおかげで半日に及ぶ手術は成功して、次に気が付いたのが朝の大部屋とは違う個室みたいな部屋に入っていくベッドの上で、瞬間的に個室は別料金という母の事が頭に浮かび、そばにいた看護師さんに「ここは個室だから別料金ですよね?」と自分のことより料金のことが気になった(笑)「先生の好意で優先順位の高い人の部屋なので別料金はかかりませんよ」と言われ安心し、また眠りについた。
後日、執刀医の先生に「わたしにとって不幸中の幸いは先生に出会い手術をしていただいたことです」と感謝を述べた。
個室から大部屋に戻る数日間は睡魔との戦い
その時は個室だと思っていた部屋はスタッフルームに隣接し、壁に仕切られ3つのベッドが縦に並んでいるだけでした。
日中は電動リクライニングベッドで上半身を起こしている状態で、横に設置されたテレビを見るのもひと苦労で首だけ動かして朝にエンゼルスの大谷を見ていました。寝ぼけたような状態が1日中続き、消灯時間になっても眠ることができず「せん妄(もう)になるから寝てください」と看護師さんに何度も言われていた。せんもうとは自分が何をしているかわからない狂った状態のようで、まだ頭に刺している管を無理に引っ張り緊急手術になる可能性があるからと説明されたが夜は寝れなくて、小学生以来ぶりに羊を数えた。そこで寝ぼけた頭脳で考えた解決法が日中は起きた状態を保つことだった。上半身しか動かせなかったので、入院したことを知っている友人と家族に話し相手になってもらい電話をしたが、基本料金が安いプランなので2日間で1万円弱の請求がきた。それほど必死の思いで、なぜ自分は病気ではなく睡魔と戦っているのだろうと思っていた。
同性の看護師さんに尿道の管周りを洗っていただいて、看護師という職業のことをいろいろ話を聞かせてもらい改めて大変な職業だと感じて感謝の気持ちがより高まった。それでもまた夜は寝れずに看護師さんから「寝てくださいね」と言われ、目を閉じているのに起きているとなぜわかるのだろうと疑問に思い聞くと「それはサネコさんがナースコールを押すからですよ」と教えてくれハッとした、自分で意識せず手に握ったボタンを押していたことに。そして再び目を閉じた。
このときの状態を普通のひとが想像しやすい表現で説明すると、よく寝て朝起きて学校や仕事に行きそのまま徹夜で遊んだりすると翌日の日中はすごく眠いですよね、その眠さがわたしが戦っていた睡魔で、普通の状態ならその夜はぐっすり眠れるのに、なぜかその眠気が訪れませんでした。
後日、看護師長さんにその話をすると長時間の全身麻酔をすると、そういう症状も出るひとがいると教えてもらった。担当看護師さんからは、睡眠導入剤を提案したが、わたしが断ったので患者さんの意思を尊重しましたと言われて、薬を使って無理やり眠るのに抵抗があったので拒否した記憶を思い出した。なので、長時間の全身麻酔後が大変というわけでなく、ちゃんと病院側も対応策はしっかりしていましたとお伝えしたいです。
個室風の部屋から大部屋へ戻る
手術後4日目の午前中に部屋を移りますねと言われ、とっさに「優先度の高い人がくるんですね」と好奇心で聞けるほど回復していた。当時はあの個室にいた時間がとても長く感じたのだが、実際には4夜過ごしただけで、時間の感覚もおかしかった。
この日は尿道から管を抜きトイレを心配し、どうやら睡眠導入剤を飲んで寝たようです。
リハビリは3種類
入院以前はリハビリという言葉から連想していたのは、踊る大捜査線というドラマの主人公刑事が病院の廊下を松葉づえで歩く練習を必死に行う姿でした。
けれどわたしの場合は脳が正常に働くか、手術による後遺症があるかの確認作業から始まりました。
- 理学 最初は歩くことから始めバランス感覚や筋肉をうまく使えているかを確認してもらい以後は軽い運動などで、身体を動かすのが好きなわたしにとって1番好きで待ち遠しいリハビリでした。
- 言語 会話や時間の感覚に記憶力など脳の状態確認をしました。会話や国語にパズルが好きなわたしには楽しい時間でした。
- 作業 少し言語と似た部分もあり実生活を想定した訓練や作業時の脳に特化した検査や診断と対策方法を学びました。手先を動かすのも好きなので楽しかったです。病院の外を歩く訓練のとき1ヵ月ぶりに外の新鮮な空気を吸ったときはとてもおいしく嬉しくて「これがシャバの空気か」なんて昭和の人間みたいなことを思っていました(笑)
放射線と投薬治療
リハビリに続き治療も始まり、この治療が始まる前には放射線科の先生からも、家族同席での説明があり、どうして腫瘍ができるのか、なぜ放射線が腫瘍にだけ効くのか、治療による副作用や注意点もわかりやすく教えてもらい、不明点や疑問にも丁寧に答えていただき、手術前同様この人たちを信じてお願いするしかないという気持ちでした。
この前後に、順調にいけばあと2ヶ月程で退院できると知り、それまで退院がいつなのか不明で不安があったので計画通りに退院できるようさらにやる気がでた。
放射線治療は高度な設備と素晴らしいスタッフで治療中は好きな音楽も聴けた
説明の日に放射線治療中に頭が動かないように頭の固定用に顔のマスクを作った。初体験づくしで、放射線治療中に聴ける音楽がYouTubeから流すことを知り、無断アップロードの曲を流すのが嫌だったので、歌うアーティストの公式チャンネルを事前に調べてそこから流してもらっていた。最初の5日間は曲を探す余裕がなかったので、放射線という光線で未知の腫瘍と闘うイメージからすぐに浮かんだエヴァンゲリオンのヤシマ作戦のBGMを流して自分を鼓舞して頭の中では闘う場面を想像していた。聞きなれた音楽でリラックスもできて腫瘍に攻撃してくれる最高にありがたい時間を過ごした。
放射線治療は平日の祝日以外毎日あり、入院患者は何時に治療があるのか呼び出されるまでわからないので、それを考慮して朝に教えてもらえるリハビリの予定から時間を推測して日中を過ごしていました。
現代の高度な医療を最新の設備と質の高い最高のスタッフによって行えることに毎回感謝をしていたが、わたしのバイブルである「ベルセルク」の楽曲を前日の音楽「パワーホール」からの平沢進つながりで流したとき、自分も病気と闘うことで主人公と同じ何かを背負い、日中ではあるが寝てはいけない状態も数日体験し主人公の壮絶な道のりを強く生きる姿に初めて心から共感でき曲の良さも相まって涙がこぼれそうなところで治療が終わり、台を降り技師さんたちに「最高の音楽でした」と口からこぼれて「いや最高なのは、みなさんでした今日もありがとうございます」と涙をこらえ素直に感謝の気持ちを伝えた。
ある日は1番好きなプロレスラーの橋本真也が目覚め前の夢に出て来たので、入場曲の「爆勝宣言」を再び流したとき、治療後に部屋へ戻る一本道の通路を歩いていると後方の治療室から大音量で音楽がまだ流れていて、まさに自分がリングへ向かう花道を歩いている気分が味わえ嬉しく勇気もでた。このような素晴らしい体験は宮崎大学附属病院だからこそできたのだと思う。本当に放射線治療の時間も受付の方や技師さんたちに毎回会うのも楽しみでした。
髪の毛が抜け出した
放射線治療から20日後の朝に起きると枕とシーツに毛がたくさんあり、始まったかと思いつい写真を撮った(笑)。コロコロは事前に渡されており、この日から起きたらコロコロで毛をとる生活が始まった。退院した今でも習慣になって布団をたたむ前に毎日している(笑)
わたしの唯一の悩みといえば次回の治療中に流す音楽を候補リストから絞り決めることで、ありがたいことにうれしい悩みでした。
おかげさまで放射線酔いや有害事象もなく全28回の放射線治療を無事に終えることができました。
最初の投薬治療は放射線治療が始まった日から最終日まで毎日寝る前に
放射線治療との相乗効果を狙いテモゾロミドという薬を毎日飲んだが、ありがたいことに副作用は軽い便秘くらいだった。消灯前に飲むところを手袋をした看護師さんに確認してもらうのだが、錠剤に触れ問題ないのは体内に入れる自分だけらしく、それだけ効果のある強い薬なんだろうと入院中は思っていた。
退院して落ち着き、時間に余裕ができ薬のことを調べると自分と同じ型の脳腫瘍の記事が出てきて、そこに書いてある治療方法はわたしが受けたものとすべて一緒で、自分の病気のことを詳しく知ったのは退院後でした。
病気が落ち着いた今では、治療方法を確立した先人の皆さまへの感謝とあとから続く闘病者の希望を絶やさぬよう中央値と呼ばれる病気での生存率を少しでも上げるよう、ひとつでも多く理由を付け戦士として強い気持ちで生きています。カッコつけた表現の理由は別の記事にも書く予定ですが「病は気から」をさかてにとり気持ちで病を克服できると信じています。
入院中の気力のひとつは友人の奥さんの無念さ
コロナ禍に親友の奥さんが2人の幼い子供を残して旅立った。皆が同い年で結婚前からよくして頂き闘病中もお守りを渡したり何度もお会いしていた。わたしは独身だし子供もいないが、少しくらいは想像できる。それは無念という言葉だけでは表せない。自分の手術が成功して、物事を入院前と同じくらい考えられるまで回復したとき、この先の治療やリハビリが未知の世界だったが、やはりその無念さが頭によぎって、自分はまだ生きているのだから、つらいなんて言葉を発するのは失礼になる、という気持ちがずっとあってなのか、1度も大変やつらいとか後ろ向きな気持ちにはならなかった。それは今までの人生で自分を鼓舞してきた言葉のひとつ「あんたまだ生きているんでしょう、だったらしっかり生きて、それからしになさい」あこがれていた人の言葉もあったからだと思う。
入院から退院までの費用
わたしが入院から退院時までに支払った総費用は43万5千円ほどで、脳腫瘍の検体を調べる先進医療は保険適用外の3万7千円でそれも含んでいます。
さいごに
脳腫瘍という病気を自分がなるまで全く知らなかったので、入院中から入院体験談をブログにしようと考えていました。あわよくば無職中のおこずかい程度になればいいなとも思いましたが、そこまであまくはなかったですね。けれどもこの記事が少しでも誰かのお役にたてれば幸いです。
あとがき
宮崎大学医学部付属病院で2023年の夏から秋に6東病棟で、左が弱いと言われ大変お世話になった者です。今はもうお会いする機会もない方々もおりとても残念ですが、新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。いつも言葉で感謝していた気持ちは今でも変わることなく皆さまの献身的で素晴らしい頑張りを無駄にすることなく今でも風邪すら1度もひかず元気に過ごしております。お仕事がんばっちょくださーい!最初はクスッと微笑んでいたお姿もわたしの宝物です。関わっていただい皆さまへあらためて心よりありがとうございます。今日も良い1日をお過ごしください。